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手の訓練

安易な精神論はきらいである。ことばだけであそんでいるからだ。だから「花は心」というようなことばを耳にすると、まずうたがってしまう。わたしの意地悪な見方かもしれない。が、心の境地まで、花を高めるのは、並大抵のことではないからだ。しかしやはり花は心なのである。

手の訓練を通じて、心を自分のものにする、といったらわかってもらえるだろうか。
肉体の訓練が先にある。それから心がある。心は肉体に宿るものだからだ。

私は病気から、からだのうごきが、いくらか不自由になった。日常生活に不便なほどではないが、もどかしい、と思うことがある。元気盛んだったころと較べるからで、いたしかたない。
不思議なことだが、いったん花を手にすると、からだがなめらかにうごく。日常の仕草と花を手にしたときのそれが、別人のように自分でも感じる。夏季講座でわたしの映画を見たかたは、なるほどと思われるだろう。

ところで花をいけるのが、若いころからわたしは早かった。最近は以前にまして早い。迷うことがないからである。花を視る。するとその花のすべてが一瞬にわかる。気がつくと花はその花のもっとも美しい状態で、いけあがっている。

いま迷うことがない、と書いた。ここが肝心である。わたしは花の前に座ると、明鏡止水、心の迷いが消える。
自慢話を書いていると思われると困る。賢明な読者はもうおわかりと思うが、手の訓練がいかに大切かが言いたいのである。これは特別な訓練ではない。だれにでもできることである。要は本人にそのつもりがあるかどうか。

ほとんどの読者は花が好きなひとたちだろう。もって生まれた花への愛着は、確かにいけばなを志すときの、大切な資質である。が全部ではない。その資質を大きく育てるためには、手の訓練が必要である。退屈と思って途中であきらめないことが肝心である。

手の訓練 中山文甫(1981年9月)

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