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花におぼれる 中山文甫

花の先生というと、花や木を相手にのんびり暮らしているのだろうと思っているひとは多い。
事実、私も何度かそういわれた経験がある。

しかし、どうであろうか。いけばなというのは案外体力のいる仕事で重労働なのだ。
直径数センチの枝も、鋏ひとつで切り落とさなければならない。昔は花材を探すために山歩きもした。心ある人は、今も山を歩いて花材を求めている。手と足が達者でないとこの仕事はつとまらない。
だからテレビドラマなどで、箸の持ちあげもままならないような楚々とした女性が、和服姿で花の先生を演じているのを見たりすると嘘だと思ってしまう。

読者も今度教室で先生の手を観察したらわかると思うが、指の節々ががっしりして太いはずだ。
そういう私の手も見るからにがんじょうそうである。いってみれば、太い指は花の勲章みたいなものなのだ。
しかし折ったり曲げたりするから、腕の筋肉もついてくる。梅の古木などは枝の性質そのものが硬いから、これを折り曲げるのが大仕事である。ときにはノコギリや金槌、ペンチなども用意しなくてはならない。こうなると大工さんも顔負けである。

いける行為〈アクション〉は、これらの道具を使っていける過程を見てもらう。見せるといってもショーではなく、実際に花や木と格闘を演じる場面であるから、優雅というより迫力が先に立つ。
真剣でないと怪我をしたりする。その間、心は張りつめて神経も集中させていなくてはならない。だからアクションは素晴らしいのだと思う。

こういうわけなので、花の先生は植物が好きでないとつとまらない。
昔に比べて体力が衰えてきた今も、わたしがいけばなを手放すことができないのも花が好きだからだ。わたしの花好きはもう本能化してしまっているのかもしれない。

さて、話はもとにもどるのだが、花や木を相手にのんびり暮らしたいものだと思う。話の結論は全く違うようだが、そうでもない。植物の前ではいつも、心だけはのんびりしたいものと考えている。

1980年9月 中山文甫 (『蛙のたわごと』より)

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